塾とはなんだ

おはようございます!

広島に来て着々と体重が増えている眼鏡Pです。
#1週間に1㎏ペース

土日は「かいせつ」をお休みいただきまして、思ったことや考えたこと、これまでのことやこれからのことなどなど色々と書いていこうと思います!

先日、子供を寝かしつけ後に奥さんのおかげで両親と2時間くらい話す機会をいただきましてた。これ、結構その通りだなと思ったことがあったので、このままのノリで行こうと思っています。

父と仕事の話をしている時に

『「蜂屋」ってはちみつ屋と言われることはなくて、文字で現すようにはちみつを採って売ることが仕事ではなく、「蜂を育てること」が仕事だと思っている』

という言葉がありまして、これは面白いなと思いました。

確かに養蜂業(ようほうぎょう)は、はちみつを売るのが本業にもかかわらず、「蜂屋さん」って言われるんです。そういえばお客さんからはたまに「はちみつ屋さん」って言われることはありますが、お世話になっている周りの方々や地域の方々には「蜂屋さん」って言われています。

今、はちみつを売ることに集中し過ぎて蜂を育てることがおろそかになっている蜂屋さんが本当に多いとのことでした。それに比べて両親はというとお金はそんなに稼いでないです。でも、蜂のことはまるで子供のように可愛がっていて、とても蜂を大切にしているんですよ。だから両親は文字の表すように「蜂屋さん」って呼ばれるのだと思います。

ここで、自分に立ち返るわけです。
そういえば「あれ?塾は?」と思いまして、早速調べてみました。
以外と知らないことばかりで僕にとっては、発見の連続でした(笑)
今回はすみませんがこの調べた内容を発表で終わりにして、明日に少し自分の意見を入れていこうと思います。

「塾」とは
塾という文字はのもともとは「門の両脇に設けられた部屋」を指す言葉です。その小部屋で家族や使用人にものを教えたことから、私的な教育の場を意味するようになりました。学者や医者などの知識人が自宅で個人的に学問を教えたもので、既に日本では平安時代から大学寮などで教える学者が自宅で別途弟子を採ったものを、家塾と呼んでいました。主として江戸時代末期~明治維新直後でまだ学校制度が整っていなかった時期にかけて学者が自宅に生徒を集めて教えたものでした。同時期に国学塾、漢学塾、洋学塾などがありました。現在の初等教育に当たる読み書き算盤を教えた寺子屋とは区別されていました。その後、幕末から明治初期にかけて設立された私塾はその後大規模な私立学校へと発展し、日本の大学制度や学校制度に沿う形になりました。そして今の津田塾、慶應義塾は、大学や高校の名称としても「塾」を残したものです。

【塾】(Wikipedia 参照)

ちなみに塾の歴史について分かりやすくまとまったものもありましたので、こちらも参考にしてみてくだい。
【学習塾の歴史】(KEC個別指導メビウス 参照)

さらに「寺子屋」もしらべてみました。

「寺子屋」とは
江戸における町人の子弟の学問施設は「筆学所」「幼童筆学所」と呼ばれ、現代では「寺小屋」と表します。なお、学問の場の名称として適切ではないためこの名前になったものと考えられています。

寺子屋の起源は、中世の寺院での学問指南にさかのぼると言われます。その後、江戸時代に入り、商工業の発展や社会に浸透していた文書主義などにより、実務的な学問の指南の需要が一層高まりました。江戸時代中期以降に益々増加し、特に江戸時代後期に著しく増加しました。またそのころから、経営形態も職業的経営に移行する傾向を見せ始めました。寺子屋の教師(師匠)は、農民、商人などの江戸の町民が多く、次に多いのが士族・僧侶でした。1872年に学校制度が始まると、明治政府は校舎建設や教員養成の追いつかない初期の小学校整備にあたって、寺子屋を活用し、 寺子屋の師匠は学校の教師として採用されました。 ちなみに1883年に文部省が実施した全国調査をによると全国に16560軒の寺子屋があったといいます。

寺子屋はまったくの私的教育施設であり、就学年齢は存在しておらず、およそ9~18歳になるまで学んでいました。1校当たりの生徒数は、10-100人と様々でした。当時の寺子屋の師匠は、一生の師であることも多く、師匠が死んだ時には費用を出し合って師匠の墓を建てる事が珍しくなかったといいます。寺子屋にて指南された学問は方角・十二支などからはじまり、読み・書き・そろばんの基礎的な読み方、習字・算数の習得に始まり、さらに商売・地理・歴史なども学び、実生活に必要とされる要素の学問が指南されていました。

【寺子屋】(Wikipedia 参照)


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